④修学院・一乗寺エリア 風雅なたたずまいの社寺が点在する里


■金福寺 〜松尾芭蕉・与謝野蕪村ゆかりの寺〜

佛日山 金福寺

 

□由来

佛日山金福寺は貞観6年(864)安恵僧都が慈覚大師・円仁の遺志により創建し、大師自作の観音像を本尊として安置されました。もと天台宗の寺であったが、後一時荒廃し、江戸時代中期、圓光寺の沢雲長老の法嗣鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派となり今日に至っています。

又、当寺は松尾芭蕉と与謝蕪村にゆかりのある俳句の聖地として、或いは舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』などのヒロイン村山たか女の終焉の寺としても知られています。

※当寺にての句

憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

我も死して碑に辺せむ枯尾花   蕪村

徂く春や京を一目の墓どころ   虚子

 

□芭蕉庵の由来

元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当寺の草庵で閑居していた住職

鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。その後、和尚はそれまで無

名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、蕉翁の高風をいつまでも偲んでおられた。

85年後、与謝蕪村が当寺をたずね来た。其の頃すでに庵は荒廃していたが、近くの村人

たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、其の荒

廃を大変惜しみ、安永5年庵を再興し、天明元年俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため

当寺に納めた。

庵が落成したとき次の句をよんだ。

耳目(じもく)(はい)(ちょう)ここに玉(たま)()く芭蕉庵   蕪村

与謝蕪村享保元年(17161783

江戸時代中期の画家であると共に俳人でもある。摂津国東成郡毛馬村(大阪市豊島区毛馬町)に生まれ、20歳の頃江戸に出て夜半亭宋阿(早野巴人)に入門し俳諧を学んだが、師の没後、茨城下館、結城、奥羽一円を絵画、俳諧の修行遍歴をした。

36歳で上京し、39歳から3年間を丹後で過ごし、絵画の修練に励み得る所多く、帰京後その地に因んで姓を「与謝」と改めた。

51歳のとき讃岐に渡り琴平、丸亀に滞在し一層画技を磨き、その後は大作を盛んに描き、京都画壇にその地位を得た。

また蕪村は芭蕉没後の平俗化した俳壇に新風を吹き込み、一般に「俳諧の中興者」と言われている。68歳京都で没した。

 金福寺でよまれた句

(春)畑(はた)打つや動かぬ雲もなくなりぬ (夏)夏山や通(かよ)ひなれにし若狭人(わかさびと)

(秋)三度(みたび)(なき)て聞えずなりぬ鹿の声 (冬)冬近し時雨の雲もここよりぞ

 

□金福寺と村山たか女

作家舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』・諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロイン村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇の部屋住み生活をしていた頃の愛人であった。直弼は32歳のとき江戸に下り、44歳で大老職に就任した。その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざるを得なかった。一方たか女は京都に於いて幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人・公家)の動向を探索し、その情報を永野主膳を通じて幕府(大老)に密報する事で「安政の大獄」に加担した。その為に、たか女は勤皇方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生き晒しにされたが、3日後に助けられ文久2年尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿」と改め14年間の余生を送り明治9年当寺に於いて67歳の波乱の生涯を閉じた。本墓は当寺に程近い圓光寺にあり金福寺には彼女のお位牌、筆跡。遺品等が伝わっている。    

住所 左京区一乗寺才形町20
電話番号 075-791-1666
開門時間 9時〜17時
料金 大人;400円、中高校生;200円
駐車場 あり
アクセス

市バス「一乗寺下り松町」から徒歩5分、叡山電車一乗寺駅から徒歩20分

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