③大原エリア 千年の祈り息づく里山


■大原魚山 来迎院 〜仏教音楽伝承の修行道場〜

□歴史沿革

当院は魚山橋の東、呂川(ろがわ)に沿って参道を300メートル登ると、下界と隔絶した雰囲気に包まれた天台宗の古刹です。来迎院のある大原の地は、平安時代初期、日本天台宗を開宗した伝教大師最澄(でんぎょうだいし さいちょう)の直弟子の慈覚大師  円仁(じかくだいし えんにん)が声明(声明)[仏教歌謡]の修練道場として開山されました。円仁は中国(唐)に留学した折、五台山の太原(たいげん)を中心に盛んに行われていた五台山念佛(声明)を帰朝後、比叡山に伝え、中国の太源に因みこの大原の地を声明の根本道場とされました。

声明とは経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く後の邦楽(今様・浄瑠璃・謡曲・民謡)に影響を与え今日に伝えられています。

大原は藤原時代には、俗化した比叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里となり、寂源が勝林院を、叡山東堂の堂衆であった聖応大師良忍が来迎院を建立するなど多くの僧坊が営まれました。応永33年(142611月の火災で焼失するが、来迎院(上院)勝林院(下院)を中心として僧坊が集落化する別所となり、魚山太原寺(ぎょざんたいげんじ)と総称されました。

又、来迎院を建立された良忍上人は、円仁が伝えた声明を魚山声明として集大成され、後に天台声明の主流となり今日に伝承されております。

盛時には僧坊が49坊を数え、声明を修練する僧侶や貴族が数多く集まり、妙音がこだまする里として栄えました。

 

□良忍上人

尾張(愛知県)の富田(東海市)の生まれ。13歳で叡山に上り、檀那流良賀(実兄)について出家し、天台の教相と観心を学び、園城寺禅仁に大乗戒を受け、仁和寺永意に金剛戒・胎蔵戒・両部の灌頂を受け顕教及び密教にもすぐれた聖でした。

大原隠棲後38歳で来迎院を建立しここに止住、如来蔵を建て大乗三蔵(経・律・論)をおさめました。

良忍上人は毎日、法華経を読誦し大乗経典を書写、さらに念佛六万返を唱え仏に供養されました。

永久5年(1117546歳のとき、念佛三昧中に阿弥陀仏から融通念佛の教えを授けられました。融通念仏とは一人の念仏と衆生の念仏とが互いに融通しあって往生の機縁となる事です。良忍上人はこの教えを以って布教され、都はもとより畿内一円に広まり、

やがて河内(大阪府)平野に大念佛寺を総本山とする融通念佛宗を開宗されました。

天承2年(113221日良忍上人は60歳で来迎院で入寂されました。

 

□内陣

【本尊】薬師如来像(重文)釈迦如来像(重文)阿弥陀如来像(重文)三尊は藤原時代の【木造漆箔寄木造】円満な相好とやわらかい曲線により優雅な美を構成している。

【脇侍】不動明王像 藤原時代後期  毘沙門天像 藤原時代後期

【前卓】牡丹唐草透かし彫り 鎌倉彫の初期の作 牡丹唐草の雄壮な図案や、その透かし彫りの刀の冴えは日本彫刻の特色を見せている。

【下陣】慈覚大師坐像(伝鎌倉時代) 元三大師画像(伝鎌倉時代) 聖応大師坐像(伝鎌倉時代)

【脇壇】徳川歴代将軍尊霊位 当院は江戸幕府の御朱印寺として寺領を授かる

【寺宝】伝教大師度縁案並僧綱牒1巻(国宝)東博出陳 日本霊異記 中・下巻(国宝)日本最古の仏教説話集 京博出陳 来迎院如来蔵聖教文書類 555部(重文)

【鐘楼】梵鐘(京都市指定)藤原国次作 (室町時代 永享7年)

【本堂】室町時代中期、火災により諸堂焼失 天文2年(室町後期再建)鎮守堂・獅子飛石・地蔵堂 鎌倉時代 

【御廟】(聖応大師良忍上人 三重石塔)(重文)

 

 ※当院より律川沿いに300メートル上流にある音無しの滝は、良忍上人が声明の修練中、自身の唱える音律と滝の音が調和したため「音無しの滝」と言い伝えられている滝は春夏秋冬変化を楽しめ見所です。

 

□年中行事

12日     修正会(午後330分~5時)

51日~30日  春季特別公開(如来蔵絵画類)

815日    盂蘭盆会

111日~30日秋季特別公開(如来蔵絵画類)

※毎日曜日 勤行法話(午後1時~2時)

 毎日   写経会(午前9時~午後4時)     

住所 左京区大原来迎院町537
電話番号 075-744-2161
開門時間 9時〜17時
料金 大人;400円、中高校生;300円
駐車場 なし
アクセス 京都バス「大原」から徒歩15分
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